| 八 赤眼
の魔道師 「おい、あんた!一体どうしたんだ?顔が恐ろしく蒼ざめているぞ。何かされたのか?」 よほど先程の一幕で受けた精神的な衝撃が大きかったのだろう。同室の者達が言うには、部屋に戻ってきた私はこの部屋を出るときとまるで別人のような表情 をしていたそうだ。それはそうだろう。事実上の処刑――それも死さえ救いと思えるような恐るべき痛苦を加えられた上での――宣告を受けたようなものだった のだから。私だけではない。ここにいる者たちも、もはや無事に、五体満足に出られる可能性はほとんど無いに等しいのであり、私はそれを彼らに告げるべきか 否かで一人苦悩していたのである。 いっそ、あの狂気の伯爵の魂胆の全てをここに囚われている虜囚全員に明かして暴動を起こし、その混乱に乗じて脱出を計ろうかとも考えたが、そうしたとこ ろで無事にここから出られる可能性は少なく、むしろいたずらに混乱を生じさせ、それどころかその事で蛮族の兵士どもの加虐性をより一層高めてしまう事にも なりかねない――そうしたリスクの面を考えると私は中々そうした”大胆な”作戦を実行に移す決断を下す事が出来ない。元来、私は何事においても周到に準備 した上で確実に計画を進めるタチなのであって、そんな私がこのようなイチかバチかの賭けに出る事すら考えざるを得ない程追いつめられている事自体に大いに 戸惑わされていた。こうまで崖っぷちギリギリの運命の分岐点、文字通り生死の分かれ目に立たされるようなハメになるなんて、これまで一度として考えてみた 事さえ無かった。そこで―――― 「いや、とくに何かされたわけではありません。ただ、この数日の拘束で心労や疲労が知らぬうちに溜まっていたようで、それが突然・・・・・・」 ・・・・・・結局、私は”大胆な企て”をその場で実行する諦めて、〈審査〉での一幕や我々を待ち受ける恐るべき運命を気どられぬよう、無理に笑顔を作っ て周りの連中に応えた。私に出来る事と言えば、ただ、ヤヌスの神に祈ること、ただそれだけであった。 ゆらり・・・・・・ 突然、部屋を照らす蝋燭の灯りが翳り、一瞬だけだったが、部屋に暗闇が訪れた。みれば蝋燭のろうが尽きかけていて、何とか再び灯を点しだしたものの、間 もなく完全に灯が絶える事は明らかだった。そこで、私が階上に待機しているはずのカウロス兵を大声で呼んで蝋燭の交換を頼もうと息を深く吸った、その瞬間 ――― 「・・・キタ・・・キタ・・・・・・奴ラガ・・・・・」 私とともにカウロス兵に捕縛されて以来一度としてクチを開かなかったフェイルーズ博士が、全身をがくがくと震わせて、あの非人間的な発声でうなされるよ うに呟き始めた。 それまで一言も喋らず、口を利くことの出来ない障害を持った人間だと――それどころか人並みの知性を持たぬ狂人だとも――思われていただけに、その事が 同室の者達にもたらした影響は大きかった。 「しゃ、喋った・・・」 「喋れたのか?」 「なんておかしな声を出すんだ」 誰もが驚き、この奇態な私の「連れ」を凝視した。いや、彼が喋れる事を知っていた私ですら、この数日の極度の緊張と我が身の今後を案じてばかりいる監禁 生活の中で半ばその事を忘れていたので大いに驚き、彼を見た。 しかし、フェイルーズ博士は私や他の者の注視の中、そのような事はまるで構いつけずに、怯えきった形相で”何も無い四方の壁”を何度も何度も見回し―― まるで透視の能力を持った魔術師がその壁の向こうにある何かを見据えるような、そんな様子であった――、この狭い部屋の中を後ずさりしたり、小走りで”何 者か”から逃げたり、両手で追い払うような手振りをしたりし続けた。 それは、どう見ても幻覚症状を起こした狂人や麻薬中毒者の、発作そのものだった。 「フェイルーズ博士、レオン・フェイルーズ博士!一体、どうしたというのです。突然何が起きたというのですか!?」 私は、その人間離れした奇怪な容貌に可能な限りの恐怖の表情を浮かべ、周囲の人間達の嫌悪と忌諱の中でうろたえ怯える、その人物の腕にとりすがり、必死 でそう叫び尋ねた。同時に、数日前自分がこの人物の屋敷で、この人物に殺されかけたという記憶も蘇ってきたが、まわりに他の者がいるという安心感もあって か、咄嗟にそのような行動に出たのだ。 その私を、しかし、彼は逆に驚きの表情で見つめてこう言ったのだ。 「分かラんのか?奴らだ、奴らガ我々がこコにいるノに気づいてシまったのだ。分からんのか?」 「奴ら?」 私はフェイルーズ博士の言葉の意味が、その瞬間全く理解出来ず、ボンヤリとそう呟き答えた。 すると、フェイルーズ博士は私の胸倉を掴み――その時わたしの首筋に触れた彼の肌の感触に、私は違和感と生理的な嫌悪感を覚えた。それは断じて、人間の それでは無かった!――、白濁した両目を私を睨みつけ、こう言ったのだった。 「なンと迂闊な!お前が呼び出シ、私と私ノ屋敷を破滅をもたラす者どもがスグそばにいるのに、全ク気づかぬのか!?」 「何ですって!?」 私は、あの日の夕刻フェイルーズ氏の邸宅で遭遇した怪異現象の全てを思い出し、彼が言わんとしている事の意味にようやく気づいて、息をひそめて自分が何 か感じるかどうか確かめてみたが、全くフェイルーズ氏の言う”異変”らしきものは感じられなかった。その様子を見て、フェイルーズ博士は呆れ果てたと言わ んかりに私を突き離し、再び周囲の壁をキョロキョロと見回しながら、言った。 「呆れタものだな! 貴様ハ霊感だとか第六感だトか、そうした類の感覚が欠落シているのか?・・・・そうか、そうダろうとも。何の恐れも無く、”死界の呼 び水”をぶちまけるナどという呪われた所業を平気でヤってのける輩だカらな!」 私はその言い草に反感を覚えた。確かに魔道学に関連する超自然科学の領域に対しては生来の懐疑主義が災いしてかやや不得手ではあることは自認してはいる ものの、私とてパロ王立学問所の博士号を持つ学者である以上、最低限の魔道学は身につけているのだし、その過程における特殊な訓練の結果、いくつかの感能 力については一般の人のそれよりも長じるに至ったという自負はある。その証拠に、部屋の他の者は私と同様、何一つかわった事などないかの如く、ただ突然の フェイルーズ博士の狂態に唖然としているだけであった。 私がフェイルーズ博士にそう言おうとした、その時―――― ビリビリビリッ! フェイルーズ博士は、突然まとっていた衣服の左腕の部分を引きちぎり、それを丸めたかと思うと蝋燭の火にくべた。普通、衣服は、布は、ある程度の湿気を 含んでいるためにそんな簡単に着火するものではないものだが、しかし、そのかつて服の袖であった布きれは、まるで長い間吹きざらし乾燥させらてもいたかの ようにパチパチと音を立てて燃え上がりはじめた。フェイルーズ博士はそれを部屋の真ん中に置くとともに、壁際に積まれていた魚の燻製だの干物だの、そうし た商品の積まれていた木箱を次々と叩き壊し、その破片や乾ききった中身を火種と化した先ほどの布きれのもとに寄せ集め、〈焚き火〉をしはじめた。 狭い室内のこと、〈焚き火〉で生じた煙や匂いは瞬く間に室内に充満し、それは扉につけられた小窓を通じて、通路や他の部屋にもつたわっていく。あちこち から「おい、何やってんだ!臭くてかなわんぞ!」「なに、これ・・・・煙?火事でも起きたの?」「おい、何とかしろ。カウロスの兵士どもに見つかったら、 厄介な事になるぞ!」などといった怒鳴り声がかけられたのだが・・・・それに返事するどころではなかった。 室内の他の連中も、私も呆気にとられてその様を見ていたが、その行動以上に我々の視線を釘つけにしたものがあった。それは――― 「おい・・・なんだ・・・あの腕は・・・・・」 腕を覆っていた袖が引き剥がされ、そこに露になったもの、それは―――おお、これが果たして人間の、いやかつて人間だった者の腕でありえるであろうか? そこに我々が見出したもの、それは・・・・・・全体的に白い、いや色白というだけではすまないナメクジやヒルのような不気味な色と質感を持った腕と、そ れを包む魚鱗のような肌の凹凸による紋様、その向こうにうっすら透けて浮かび上がっている緑色の血管、腕の外側に一列に並ぶ尖頭状の小さな突起のようなも の・・・・全体的に「不完全」、あるいは「過渡期にあるもの」といった印象を受ける、何か別の生物のそれとしか思われない奇っ怪な、異形の姿であった。 不気味な、いやそれだけでは言い足りない、何やら見るものを不安にさせてやまない、生理的嫌悪感をもたらしてなお余るそのおぞましい「素肌」を見た瞬 間、私はまるで蛇ににらまれた蛙のような、全身が強張り呼吸すら困難に思われるくらいの心理的行動不全――いわゆる金縛りというヤツだ――の状態に陥って しまった。私は、自分がこの数日間行動をともにしていた怪人が、どんな化け物であったのか、改めて思い知らされ、うちのめされ、恐怖した。残忍なカウロス 軍やその狂える参謀など比べるべくも無い。彼らのふりまく狂気や危険など、あくまで、この世の、人間のそれでしかない。しかし、私がいまレオン・フェイ ルーズという怪人から感じたものは、生き物としての、本能的な恐怖だった。いや、それはどうやら私だけではなかったらしい。他の者も同様だったようで、 皆、まるで魅入られたかのようにフェイルーズ博士に、その露になった左腕を凝視していた。 そんな中、フェイルーズ博士はまるでおかまいなしに木箱を破壊し、中身もろとも火にくべる、という作業を黙々と続けた。部屋はもはや燻製をつくるための 竈のような様相を呈し、もうもうと立ち込める煙と様々な匂いが入り混じった臭気、そして熱気で充満しきっていた。他の部屋の連中は、先ほどにも増して怒鳴 りちらし、喚いていたらしかったが、まるで我々の意識には響かなかった。 「・・・・これデしばらくはモツだろう・・・・・」 フェイルーズ博士はそう言うと、突然「作業」を中断し、その様を凝視している我々を振り返り、呟いた。 「・・・さて・・・・贄が要るナ・・・・」 そう言うやいなや! フェイルーズ博士はすぐ側にいた青年の喉笛にがっきと食らいつき、ガツガツと鮮血の溢れる青年の首筋を噛み、裂いていく!あまりに突然のことであったた めの驚愕のせいか、それとも悲鳴をあげようにも声帯を封じられたゆえにそう出来なかったせいかは分からなかったが、青年はひと声も発する事なく、ただ両手 を力なくバタバタさせただけで抗う素振りもみせず、為されるがままの体であった。そうしてしばらくすると、フェイルーズは口を離し、両手をそれまで噛みつ いていた首筋の裂け目にあてがうと、一気にそれを左右に引き裂いた。それから力を失い崩れ落ちた体の上に跨り、青年の頭部であったモノを乱暴に前後左右に ガキガキと折り、ねじっていくと、ついに首の骨やら筋やら気管やら、そういった頭と体を連結していたものがブチブチという音をたてて全て分断されてしまっ た。 ドクドクと血が溢れ出る体を――そのせいでせっかくおこした火を消さぬように思ってのことか――部屋の隅へとおしやると、フェイルーズ博士は青年の頭部 だったモノをつかみ、、それから垂れる血液や体液でもって――真っ赤に塗れた口から不気味な呪文を発しつつ――何かを床に描いていく。 「ブェル・ヴォ・シュギューラ・ゲノ・ヴォーダイン・グォロ・グオルォーン・・・・」 それは窮めて邪まな印象を我々に与える秘術の、邪宗の黒魔の祭儀に用いられる呪文と紋様に他ならなかった。もうもうとたちこめる煙や臭気と、そこにこだ ます怪人の奇怪な声色で紡がれる妖しげな呪文とで、私は、まるで悪魔教団の祭儀の場に紛れ込んでしまったかのような、痺れるような感覚を覚えた。 煙はますます濃くなってゆき、その中でぼんやりとみえる蝋燭と床の〈焚き火〉の炎による揺らめく明かりの中で、恐怖と驚きでただただ立ち尽くす人々がま るで踊る影法師であるかのように思えてくる。 やがてフェイルーズ博士は、含んでいた血液を全て流し尽くしてしまったらしい手にしていた首を放り投げると、「・・・まだ足りぬ・・・」と呟き、先ほど 破壊した木箱の破片の中で先端の咎っているものを拾い上げ、近くにいた初老の男のやはり首もとに、何の躊躇もなく突きたて、そのまま壁際まで突き進めた。 壁に木片で喉元を押さえつけられた老人は、フェイルーズ博士の顔面や体を殴打し、蹴打し、とにかく必死で抵抗を試みようとしたが相手は無機質な機械ででも あるかのように全く動じる気配は無かった。そしてフェイルーズ博士は、相手の喉元に突きつけていた木片に力を、全身の体重をかけるかの如くに込め、一気に 初老の男の喉を貫通させてしまった。 「ガハッ!・・・・ゴボッ・・・・」 咳と喀血が入り混じったような感じで男の口から血が溢れ、シューシューという不快な音とともに首から鮮血が流れ出す。男は自分の身に起きたことが信じら れぬ、といった様子で大きく目を見開き、なおもフェイルーズ博士を押しのけようと抵抗を試みていたが、フェイルーズ博士が相手の喉を貫いた尖った木片にさ らに力をこめて、左右にグリグリとやると、ついに抵抗する力を失い、――まるで標本の昆虫のように――先ほど殺害された青年の首無し死体が転がっているす ぐそばの壁に縫いつけられてしまった。初老の男がこときれた後――フェイルーズ博士は、次の獲物を選ぶかのように立ちすくむ我々をねめつけた。 この時になって―――ようやく我々のうちの一人が正気に戻り、叫び声をあげた。 「うわぁぁぁ、人殺しだっ!殺される!助けてくれぇ!」 それが引き金となった。他の者達の身体の自由を奪っていた奇妙な束縛も解除され、部屋にいるもの達はてんでに怪人から逃れようとしたり、喚いたり、扉を どんどんと叩いて助けを求めたり・・・とにかく煙と悪臭と熱気で充満した室内は混乱の様相を呈していた。 私は、精神的な拘束状態からは解放されたもの、目の前の信じがたい光景に唖然とし、ボンヤリと立ち尽くしていたのだが、そんな私の前に、口元と両手、そ して返り血を浴びた身体を真っ赤にぬらしたフェイルーズ博士が対峙し、まるで食材の鮮度を推し量るかのような表情でじっとみていたが、やがて――― 「だめだな・・・・貴様は使イ物ニならぬ・・・・むしろ邪魔だ・・・・」 と言うなり、右腕を持ち上げ、私の側頭部を払いのけるかのような感じで掌打を食らわせた。・・・なんという恐るべき怪力だったろう!まるで、力をこめた かのように見えなかったにも関わらず、その一撃はまるで重たい棍棒で殴られたような重く強力な打撃で、幸い首の骨が折れることや気を失う事はかろうじてま ぬがれたものの、私は地面に叩きつけられ、軽い脳震盪を覚え、視界ががくがくと震えた。 そうして地面に這いつくばり、視力や意識力が著しく低下した私が、もうもうと立ちこめる煙の中で見たのは・・・・・一人の、いや、一匹の怪人による、一 方的な惨殺、殺戮であった。 怪人は後ずさりする、まだまだ少年といった方が正しいような若者の顔面に手をあて、それを壁に思い切り叩きつけ、いともたやすく、そう、柔らかなフォリ アの果実をそうするかのように造作もなくその頭部をグシャグシャに潰した。怪人の手の指の隙間から、ドロリと片方の眼球が垂れおち、その手が離れ首から下 の身体がズズズっと下にずり下がった後には、バラバラになった頭骨や脳漿が入り混じった肉塊が壁にこびりついていた。 それから怪人は腰をぬかし、座り込んでいた小太りの商人の頭部と顎に両手をあてがい、それをぐいっと――それこそ顎が上になるくらいまで――ねじり、た やすくこれ絶命させると、泣き叫んでいた老婆の口に細い木の棒を突き刺し、ゴキゴキという不快極まりない音をたてながら貫通した木の両端を船の舵輪のよう に何周もまわし、その首をねじ切った。 この立て続けに四人を殺害した怪物に抵抗を試みるものがついに現れた。 「人殺し!・・・・この・・・・化け物め!」 そう言って草原の民らしい浅黒い肌をした精悍な顔をした男が、落ちていた先の尖った木片を片手にフェイルーズ博士に飛びかかった。「全ての男子が戦士で ある」と中原に伝わる草原の民の一員にふさわしく、その男は勇敢で、しかも戦い方の心得も多少はあるようだった。ただがむしゃらに飛び込むのではなく、正 確に相手の急所、心臓をめがけ、狙い過たずに突き刺した―――筈だった。 しかし―――木片は、あいての胸に突き刺さるのではなく、もっと硬質な素材にそうしたかのようにカキンという甲高くあっけない音をたてて弾かれてしまっ た。木片の形状や男の戦闘の技量から私には間違いなくフェイルーズ博士の胸に木片が突き刺さると思っていたのだが、その予想は大きく外れた。服の下に、な にか防具じみたものを身につけているのか、それとも他に理由があるのかは分らないが、とにかく男の攻撃はフェイルーズ博士の胸を貫くことが出来なかったの だ。しかし、男は呆けてはいなかった。己の攻撃が利かないと見るや、今度は巧みな体さばきでフェイルーズ博士の背後に回りこむことに成功し、左腕を喉元に まわし、その手首を右腕の肘関節に挟み込みグイグイと締めあげはじめた。窒息させようなどという生易しいものではなく、気管そのものを押しつぶす、もしく は首の骨をへし折ろうという、そういう気迫の篭った首締めであった。草原の民らしく筋骨逞しいその両腕がみるみる赤くなっていき、筋肉がくっきりと浮かび 上がっていく。男が、これまでの人生でかつて無かったほどの力を発揮しているのは明らかで、誰もがフェイルーズ氏の死と断末魔の抵抗を予感した。 しかし! いくら―――いくら時間がたっても、男が力を込めようとも、一向にフェイルーズ博士には効いていないようだった。それどころか、男が首を締め上げるまま にまかせ、次の獲物を求めて動き出しさえした。 「うわぁぁぁあああああっ!」 響く悲鳴!その次の瞬間、その悲鳴をあげた恐怖に震える一人の青年の口の上下にフェイルーズ博士の両手があてられたかと思うと、それは左右に大きく引き 裂かれ、そこには顎より上の部分が不自然に後ろに折れ曲がった一個の死体が残された。 「く・・・・くそ・・・・・」 ついに―――ずっと背後よりフェイルーズ博士の首を締め上げていた草原の男が力尽き、極度の消耗と著しい精神的落胆から、その場にへたりこんでしまっ た。 「・・・・こいつは・・・・人間ではない・・・人間であってたまるか・・・・」 その呟きが終わるやいなや、男の左胸にフェイルーズ博士の、あの不気味な形状をした左腕が突き刺さり、男の身体を突き抜けたその左手には、男の脈打つ心 臓が鷲掴みにされていた。 恐らくこの中で最も戦いに長けていたと思われていた精悍なその草原の男のあっけない死は、残されたものにこの上のない絶望を与えた。もはや、この怪人を 止める術はない。もはや、死から免れる術はない。 私はボンヤリと、残り三人となった生存者が次々とフェイルーズ博士に虐殺されていくのを見ながら思った。 どちらにせよ、ここに捕らわれているものにはカウロス軍の残忍な拷問とその挙句の死でしかないのだ。ならば、ここで、この奇怪な怪物に簡単に殺されてし まうのも、それほど悪い運命ではあるまい。むしろ、ある意味では、それは救いですらあると言っても過言ではないのかも知れない。 それよりも不思議なのは、そのカウロスの兵士どもがなぜ現れないのか、という事だった。いくらここが地下で、その音が上に伝わりにくいとは言っても、所 詮はただの倉庫を転用した簡易の牢獄に過ぎず、その防音水準や密閉性はそれほど高くない。これほどの騒ぎや物音がおきて、いや、それだけではない、他の部 屋の囚人どもの怒声が響き渡っていても誰一人この場にあらわれ騒ぎを鎮めようとしないというのは、一体どういう意向か?それが全くわからなかった。 また、フェイルーズ博士―――私が、この数日間一緒に行動した、この怪人についての謎も深まった。いったい、この男は、この怪物は何者なのだろう?そし て、この部屋の囚人を次々に血祭りにあげて何を目論んでいるのだろう? そして、その怪物が私に言った言葉―――『貴様は使い物にならぬ、むしろ邪魔だ』とは、一体どういう意味か?私と目の前で屠殺されていく他のものとで は、一体何がどう違うのか?そして、壁の向こうに潜んでいる――とフェイルーズ博士が私に告げた――見えざる者ども、あれは一体何者なのだろうか? こんな状況であるにも関わらず、いや、こんな状況だからこそだろうか、私は次々と浮かんでくる答えの見えぬ疑問にすっかり捕らわれていた。そして、ふと 気づくと―――私以外の部屋のものはすでの全員惨殺されており、黒煙と異臭の中、怪人が非人間的な声質で邪悪な呪文を唱えつつ、部屋の床に、殺された者の 血で紋様を描いていく。 その呪文で用いられた言葉は、はるか太古に忘れ去られた異教徒か邪宗のものであったらしく、大半は意味すらわからぬ発音の羅列にしか思えなかったが、一 部には古代ルーン語が用いられていたので、ごく部分的には意味の分かる――というか私の知っている単語や文に変換できる箇所を有していた。 ブェル・ヴォ・シュギューラ・ゲノ・ヴォーダイン・グォロ・グオルォーン ロンザ・ヌ・ウスス・フェラウケリ・ブルモス ロンザ・ヌ・ウスス・フェラウケリ・ブルモス オリュオーンの黒魔宮にお鎮まりいただく 大公ヴォーグハスムの御前に これなる贄を捧げ申し上げたてまつる オルラ・タルス・ヴェル・ボーダイン・バイルド オルラ・タルス・ヴェル・ボーダイン・バイルド いと高き尊き我が主の御名の 永遠の栄光を、永久の隆盛を、 永劫の御威光を 遥かなる蛮卑の地より祈念したてまつる ルレルル・イジョリー・モー・フィア・フル・ダン ルレルル・イジョリー・モー・フィア・フル・ダン 汝が忠実なる下僕 われレオン・フェイルーズ 常に汝を崇め、帰依したてまつり、 今生のみならず来世、来々世に至るとも常に汝に仕える事を今ここに改めて誓わん ジョフ・ベルルネク・レム・フォブ・ウェルゼン ジョフ・ベルルネク・レム・フォブ・ウェルゼン 以って、我が主の深大なる御姿の一端を 今ここに示したまえ 汝が下僕の苦難を取り払わんがため その全能なる御力の一端を貸し与えたまえ さればより一層の至誠と親愛をもって汝に仕え 御威光と御威徳とをこの地に布せ広めん ブェル・ヴォ・シュギューラ・ゲノ・ヴォーダイン・グォロ・グオルォーン 至高なる魔神ドールとその御名において その八十八の眷属の一柱 聖地ドーリアの大公たる我が主ヴォーグハスム神に 謹んで言上申し上げる ブェル・ヴォ・シュギューラ・ゲノ・ヴォーダイン・グォロ・グオルォーン・・・・・ それは―――まごうかたなき、邪教の呪言に、降魔の儀に、他ならなかった。 レオン・フェイルーズは、この呪文を血塗られた口で弛むことなく紡ぎ続け、と同時に、この部屋の床に血で奇怪な紋様を――今となっては、それが一種の魔 法陣である事が明白であった――を描き続けた。 例の呪文を数回繰り返した頃には、その魔法陣の大方は完成し、彼はそれからまだ焼け残っていた木片の中で比較的棒状の形になっているものを選んで魔法陣 の四隅につきたて、その上に心臓やら頭やら眼球やら・・・死者の肉体の一部をのせ、残る死体を一ヶ所に――最初に殺した男の死体のそばに――重ねていく。 そうして寄せ集められた死体から流れでる血液はちょっとした血だまりを作り、それはまるで皿に注がれた果汁のようにも思われた。 そうして、何やら、彼にとって必要な準備が整ったらしく、フェイルーズ博士は生首の一つを持って魔法陣の中央に座して呟いた。 「・・・・これで良い。この呼び水なら、術もたやスかろう・・・・」 呼び水、という言葉を耳にして、私は、その様子が、フェイルーズ博士の屋敷の地下で見た、あの妖しげな祭壇にそっくりな事を思い出した。そして、そのと き夥しい量の亡霊が溢れ出る渦巻く水がたたえられた壷がその中央に据えられていたのだが、彼はそれを”死界の呼び水”と呼んだのだという事をも思い出し た。ならば、死界の呼び水とは一体・・・・・? 魔方陣の中央に座した怪人は、生首を両手で捧げ持ったまま、その血だまりを凝視し、 「・・・・・・ヴォーグスハム・・・・・・・ヴォーグスハム・・・・・・ヴォーグスハム・・・・・・・」 と、何度も何度も呟いた。その間隔は次第に狭まり、声は強く大きくなっていく。 そして――― 「・・・・・ヴォーグスハム!」 それが最大限に高まり、フェイルーズが可能な限りの大声で大きく叫んだとき! ゴォォォォォ――― 死体から流れた血で出来たたまりは突然渦巻きはじめ、黒い靄のような、影のようなものがその中からあらわれた! 「おお・・・・ぉおおお・・・・・・」 レオン・フェイルーズ博士はその沸き起こった靄に対して深く叩頭し、ブツブツと全く聞き取れぬような呟きをこぼしたかと思うと、両手に持っていた人首を うやうやしく差し出した。 すると、初老の男のものであった首が突然その靄にくるまれたかと思うと、次の瞬間には、それは完全なされこうべに、白骨に変化してしまった。いや、それ だけではない。私は積み重ねられた血だまりの向こうの死体の全てが、徐々に白骨化していくの目撃したのだった。その靄というか黒い影のようなものは、それ 自体が肉質ももった物体、生命体であるかのように死体の山にたかりつき、グチャグチャと音をたててその血肉を啜っている! なんとも淫らでおぞましくのたくり回る、この、形を為した暗黒に、私は吐き気を催すような嫌悪感を覚えた。それは人間というものの存在を卑しめ、貶め、 侮辱するために現れた悪夢の顕現に他ならなかった。同時に、私は、そんな化け物に同族たる――少なくともかつてはそうだった――人間を差し出し、その庇護 を得ようとする、レオン・フェイルーズという人物あるいは怪物に対し、言葉にならない怒りと憎しみを覚えた。彼の行動は、私や彼自身を含めた人間という種 族に対する、重大な裏切り行為に他ならず、彼の考えた事、行った事は人の子として最悪の部類に属するものだった。そんな怒りを覚えた私の目前で、私の事な どまるで眼中に入らぬかのように事態は進行していった。 しばらくの間そうやってフェイルーズ博士が叩頭して何事か呟いているのを聞き届けたあと、暗黒のもやは巨大な三又のヘビ――あるいは三本指の巨大な手 ――のような形状となり、フェイルーズ博士を包み込んだ。すると、それを合図とするかのように、そのもやが出現した血のたまりから、もの凄い轟音をたて て、何かが部屋の中に溢れこんできた。 そして私は・・・・・それに見覚えがあったのだ。 うぉぉぉぉぉおおおん・・・・・ ヒィー・・・・・ ギギギギ・・・・・・ それは、苦痛と怨嗟にまみれた、亡者の叫びであった。部屋には、木箱やその中身が焼き焦げたものと異なった、腐り果てた死体の臭気が充満し、そこかしこ に生暖かい――ほとんど現実的な触感まで伴ったかのような死霊、亡者の妖気で溢れかえっていた。この感覚は――私がレオン・フェイルーズ博士の屋敷に一歩 足を踏み入れたときに感じた、あの感覚にそっくりだった。 いま、この部屋は、あの屋敷と同様、この世にありながら半ば異界に属す、そんな魔界になりはてていた。私は、再び、魔界にまぎれこんでしまったのであっ た。耳を覆いたくなるような、心胆寒からしめるおぞましい喚声は次第に弱まっていき、かすかに聞こえるような気がする、という程度におさまっていたが、部 屋にたちこめる異様な気配は全くそうではなく、むしろ無理やり押し込められたような、より濃い妖気となって、ますます部屋にはびこっていくようであった。 「・・・これデ良い・・・・これで・・・今しばらくハ・・・・・・大丈夫だロう・・・・・」 そういって、フェイルーズ博士は血で描かれた魔方陣の中央に座り込み、大きく一息ついた。明らかに先ほど呼び出したもやのような怪物は、そしてそれを呼 び出す召還の法は、彼にとってもけして安全で楽なものとは呼べない、実に大きな危険と緊張とをもたらすものであった事が窺えた。 そうして―――彼、レオン・フェイルーズははじめて私が彼を見た時と同様、或いはこの数週間この部屋でそうしていたのと同じく、顔を伏せ、黙したまま身 動きしなくなってしまった。部屋は、その中にいた全員が白骨と化し、床に血で描かれた魔法陣が広がり、部屋の片隅には血が溜まって出来た渦巻くたまりが出 来、時おりこの世のものならざるおぞましい喚声が聞こえ・・・・つい先ほどまでと全く様相を変え、異様な緊張感を孕みながらも、とりあえずの静寂をとりも どしていた。 ジジジ・・・ 部屋に煙と異臭と熱気を生じさせていた〈焚き火〉はいつの間にか僅かなくすぶりのようなごくごく小さなものとなっていたし、蝋燭の灯りはとっくに尽き果 てている。つまり、部屋に、完全な闇が訪れようとしていたのであり、私は、この奇怪な人物と暗闇で過ごさなければならなくなってしまったのだ――少なくと も食時を配給する係の兵士が訪れるまでは。 私は、こらえきれず、怒鳴った。 「フェイルーズ博士!いや、レオン・フェイルーズどの!貴方は、先ほどの行為は一体なんの真似ですか!ヤヌス教団に対する明白な裏切り・・・・いや、あ れは、明白な邪教の魔術に他ならなかった!貴方は悪魔崇拝者だ!私は・・・・・エオリア派の洗礼を受けた正当な信徒として、ヤヌスの御名において、貴方 を、貴方の思想・言動を断罪する!その意味がおわかりかっ!」 私は、目の前にいる余りにも奇怪な人物に指をさし、大声で罵った。いくらエオリア派がジェニュア派を筆頭とする正統諸派にくらべて穏健で知られていると はいえ、こうした明白な悪魔崇拝を、ヤヌス十二神教への重大な反逆行為を、みすみす見過ごす訳にはいかない。いや、それ以外にも、私が彼を罵り、その所業 への告発を行おうとする理由は、いくらでもあった。 「・・・・・そもそも・・・・」 もはや、相手が先ほど一方的な虐殺を行った危険人物であることも、それと二人きりでいるというこの上なく危険な状態にあるということも私の頭からはきれ いに抜け落ち、この数日間の溜まりに溜まった精神的な圧迫感や苦痛のはけ口を、矛先を、この目の前の人物に罵詈を浴びせかけることに求めたのだった。 「・・・・・貴方は一体、何者なのだ!? あんな薄気味悪い館に一人で引き篭もっているかと思えば夜な夜な人気の多い酒場に姿をあらわし、かつて(パロ王 立)学問所に多大なる貢献をした有能な学者であるかと思えば邪悪極まりない悪魔崇拝に没頭し、のみならず怪しげな妖術を駆使して亡霊を操り、一方でかの姿 なきものどもを酷く恐れ、怯え・・・・なおかつ平気で同じ人間・・・といえるかどうが分らないが・・・・。・・・・・そうだ。貴方は、もともと、栄えある パロの洗練された貴族の一族の出にしてそれなりの容貌をしていた明朗快活な人物だったと聞いている。それが、何故そのようなボロをまとい、怪奇極まりない 言動をする人間離れした異相を持つ怪人と成り果てるに至ったのか、そこが知りたい!如何に!?」 しかし・・・・・怪人は、レオン・フェイルーズという名を持つ目の前の人物――もはや人であるかどうかすら疑わしかったが――は、そんな私の問いにまる で反応するそぶりを見せなかった。そのことで、私はますます逆上し、思った事全てを、それこそ先ほど面会した狂えるカウロス人貴族のアドルフ伯爵と同じよ うに、ありったけまくしたてた。 「答えられよ、フェイルーズどの!貴方は、貴方の屋敷にて、いったい如何なる邪悪な儀式を行っていたのだ!? あの屋敷に渦巻いていた・・・・・そして、 今また、ここに、こうして漂っている亡霊、悪霊を呼びいだしておいて、貴方は一体何を企む!? また、あの謎めいたイ=ハン=スレイの伝説にまつわる書 物・・・・わざわざ、なぜあの書を私に貸し出そうとなされた?ディーレイとは、何か?そして、あの呪文を――そう、”呪いの文言”以外の何ものでもありは しない!――唱えた起きたあの怪異は、あらわれた怪物どもは一体何だったのか?私には、まるで・・・・全く理解出来ぬ!また、さきほどの凄惨極まりない虐 殺の際、私を、私だけを見逃した理由は一体なんなのか?なぜ「使い物にならず、邪魔となってしまう」というのか?その真意はいずこにある?・・・・・・ さぁ、答えられよ―――否・・・・・・答えよ、フェイルーズどの!」 私は強い口調で詰問した。と、その時! 「・・・・・・・・・・・・・・・・・!!」 私は、ギョッとした。フェイルーズ博士が、不気味な双眸をかっと見開いて、私の方を見上げたからである。・・・・・いや?そうではない。私ではなかっ た。その視線は私の背後――正確にいえば、この部屋の扉の、上の部分に設けられた小窓――に向けられていた。フェイルーズ博士は、その人間離れした異相に 可能な限りの驚嘆の表情を浮かべ、口をパクパク動かし、それから、こう呟いた。 「・・・・・貴様・・・・何とイう事を・・・・・・!!」 ・・・・・何かが・・私の・・・背後にいる・・・・・!! 私は、背後に―――フェイルーズ氏が視線を向けた先に、背後に、何者かの気配を感じ、慌てて横に飛びすさり、その扉の方に目を転じた。 するとそこには、暗い赤色の色をした、注意深くも冷淡な――まるで学者が実験動物を観察するかのような無感情な――瞳が、真っ直ぐにフェイルーズ博士を 見据えていた。と、思いきや・・・・・次の瞬間には、そこから姿を消してしまっていた。私は、瞬きなどしていない。しかし、にも関わらず、その暗い赤眼を 持った「人間」は――そう、少なくとも、それは人間に他ならなかった――、一瞬にしてその姿をかき消してしまったのである。 幻覚、錯覚の類か?いや、そうではない。姿こそ見えぬものの、その気配は、未だそこに佇んだままだ。ふと、私は、先ほど「審査」を受けるために階段を上 がろうとした時に感じた気配を思い出した。あれと全く同じ感じなのだった。それは、通常の人間が自然に放っている気配をグッと抑制させたもので、逆説的で はあるがその事でかえってある種独特の特徴を際立たせていた。私は―――その感覚に覚えがある。と、いうよりそれを感知する能力について多少訓練を積んだ 覚えすらある。これは――私が昔学問所で魔道学を学んだときの導師や、学問所付属の《魔道士の塔》の魔道師達が発するものと共通のもの、即ち魔道師のオー ラに相違なかった。 何故こんなところに魔道師が?そう思って、その室外に佇むオーラのより強い注意を払うべく、そちらに集中すると、それに呼応するかのように、その気配 は、そこから綺麗さっぱりかききえてしまった。魔道の術で、どこか遠くに去ってしまったか、或いはより高等な――それこそ、私のようなちょっと魔道学をか じった程度の生身の人間には見つからないほどの――《隠形術》を用いて、巧妙にその存在の痕跡を消してしまったか・・・・・。いずれにせよ、私には室外か らは全く気配を感じられなくなってしまったのだった。 ・・・・・・・・・・・!? 気づけば――――先ほどまで部屋に満ち満ちていた、あの、息苦しいほどの妖気もまた、感じられなくなっていた。そして、あの不気味極まりない苦悶の、呪 いのうめき声も、また・・・・。そう、すっかり、部屋から、あの亡霊の群れが消え去っていたのだった。最前、フェイルーズ博士が怪しげな魔術で異界から呼 び出した、突然この部屋に溢れかえったあの、夥しい亡霊どもがいなくなり、部屋はまた元の、ただの地下室に戻っていた。 パチパチ・・・・くすぶっていた木片のわずかな炎がゆらめき、今度こそ部屋は闇に包まれようとしていた。その灯りが今まさに消えゆこうとしている最後の 瞬間、私の目に映ったのは、完全に乾ききって大きな血痕と成り果てた血たまりと、細かい砂と化した死体の山、そしてこの上ない恐怖に顔をひきつらせガクガ クと震えている怪人の姿だった。 フッ・・・・・・・・。 ついに―――部屋は、漆黒の闇に包まれた。何も見ることが出来ず、ただかすかに私とフェイルーズ博士の呼吸の音だけが響き渡る。・・・・・・考えてみれ ば、それはそれでまた、おかしな、奇妙な話だった。 先ほどまで辺りにこだましていた、煙や悪臭に対する他の部屋の連中の苦情や文句や疑問の声が、いつからそうだったかハッキリと思いだせないが、プツリと 聞かれなくなってしまっていたのだ。というより、全く――物音の一つも聞こえなくなっており、この地下室に私とフェイルーズ博士の二人しかいないかのよう な、そんな静寂が辺りを支配していたのだったが―――果たしてそんな事がありえるのだろうか?少なくとも、このもともとダネインの湿地で捕れる水産物を卸 し、それを貯蔵したり商ったりするために作られた建物の地下室には、カウロス兵に捕らえられた数十名もの人間が監禁されているのであり、わずかな壁を隔て ただけの造りである以上、その話し声や衣擦れなどの物音が聞こえてしかるべきなのだ。また、それなりの人気も感じられて良い筈だった。 しかし、そうした消息の一切が、いまや全く見出せないのである。 他の人々は一体どうしたというのか?私は思わず耳をすましたが、やはり何も聞こえない。ひとけが感じられない。まさかこの短期間に、あれだけの人数がこ の地下室から抜け出すなんて事はありえない。この全ての成り行きが申し合わせによる策謀で事前に段取りを整えていたというのならともかく、そうでなくば、 あれだけの人間がこれほと速やかに移動しおおせるなんて事がある訳がない。だが・・・・そんな事があり得るだろうか?あれだけの人数の人間が、全く不自然 なそぶりを見せず、私やフェイルーズ博士をたばかるという事が可能なのだろうか?少なくとも、私には、理不尽な拘束に対する彼らの不安や憤り、恐怖は本物 にしか見えなかったし、そんな謀略を行う理由に思い当たることは無かった。 あるいは・・・・何らかの理由で・・・・・彼らが死に絶えてしまった・・・・という事も考えられないではないが・・・・・これだけの惨劇や奇怪な出来事 の連続でついそう考えてしまうのも無理からぬ事ではあったが――すくなくとも、一度は、それが脳裏に浮かんだのは事実だった――しかし、その考えには根拠 がない。私は、とりあえずその考えもおいておく事にした。 すると、当然の帰結として、この部屋――私とフェイルーズ博士が拘留され、先ほどの惨劇の舞台となったこの部屋だ――と、外部の空間とが、何らかの超自 然的な力あるいは強力な魔道の術によって完全に断絶させられ、孤立させられているのだという考えに行き当たる。それは、先ほどの怪奇現象や突然現れた「魔 道師」の存在により充分な現実味を帯びていたし、私には非常に納得のいく、妥当な考えに思われた。実証主義を基本的な立場とする学者にあるまじき言い草 だったが、”私の直感が”それこそ正しい判断だ、と私に強く告げていた。 そう、この部屋は、他の空間から隔離された「閉じられた空間」と化し、我々は、無理やり現世と摂理の異なる亜空間に放り込まれたのであった。先ほど、 フェイルーズ博士は異界の存在を召喚し、この部屋を異質な空間に作り変えたのとは根底から違う。異界を呼びこんだのではなく、異界に投げ出されたのであ る。 一切の光のない、暗闇の中、私は、私自身とフェイルーズ博士の荒い息遣いだけが聞こえるほかの一切の聴覚と視覚、さらには嗅覚を喪失し、己が立っている 床の感触すら薄れていくような気がした。それだけではない。次第に意識や感覚がグラグラとしていき、ついには前後左右の感覚までもが失われていき―――私 は、暗黒の海中に漂うクラゲにでもなったかのような、そんな浮遊感を味わっていた。もはや、正常な判断が出来ない、それだけの思考能力がない・・・・不思 議な酩酊感に包まれ、何かを能動的に行う事が出来なくなってしまっていた。 そうして、どれだけ経った事だろうか―――? 私は、何か奇妙な数本の《触手》のようなものに巻きつかれ、全身くまなく〈触診〉されているような、そんな感覚を味わった。〈触診〉は頭の先から足の先 まで、隅々まで余さず行われ、それが終わると今度は、その《触手》が体内のあちこちに侵入し、外部と同様に、身体の内部を精査した。《触手》はぐにょりぐ にょりと身体のあちこちで挿入、搬出を繰り返し、私はその都度、無理やり犯されるよりももっと不快な、私の存在を根本的な部分から嬲られるかのような、何 とも奇妙で屈辱に満ちた感覚を味わった。 やがて、《触手》は〈触診〉を終え、私の体内から全て抜けて出て行った。ほっとしたのも束の間、突然、私の額の部分から先ほどの触手よりもっと「冷た く、硬質」な、《触手》というよりも何か棒状のようなものが差し込まれ、私の頭の中にその先端部分を残して、取り出されていった。その「先端部分」は、し ばらく脈動をくりかえしたかと思うとスゥっと溶けてゆき、私は元の暗闇の中での浮遊感に浸された酩酊状態に戻されていった。 その時――――あたりに、悲鳴とも絶叫ともつかぬ声がこだました。 「ヒィィィィ―――――ッ!」 それが、私の奇怪な連れである、レオン・フェイルーズから発せられたものは明らかだった。その声には狂おしいまでに切実な懇願と、怯えが、多分に含まれ ていた。 「た・・・・助けてクれ・・・・・俺ヲ・・・・・奴ラからかくまっテくれ・・・・頼む・・・・」 すると―――まるで、その願いを嘲り、小馬鹿にしたような含み笑いが、どこともなく聞こえてきた気がした。 (・・・くくくくく・・・) それを聞いて、フェイルーズ博士は、なお一層必死になって、その〈相手〉に懇願した。 「・・・・頼む・・・助けてクれ・・・・・・でなければ・・・今すぐ・・・この場で殺しテ・・・・直ぐにその魂を奪いさってくれ・・・・・・・俺 は・・・・せめて・・・・せめて人として死ニ・・・・人として黄泉路を下って行キたい・・・たとえ・・・それがドールの地獄であってもかまわない・・・・ むしろ、その方が良いくらいダ・・・・しかし・・・・今となっては・・・・ソレも叶わぬ・・・・・・このまま連れ去ラれたタら・・・・俺は・・・・・俺 は・・・・・・」 なんという―――何という救いの無い、願いであっただろう?彼は、生よりも死を、それもただの死ではなく、悪しき魔道師の――よもや、これが〈正しき〉 魔道師の仕業であろう筈がなかった――永遠の玩具と化すことの方を望んでいるのだ。それほどまでに、彼が避けようとする運命とは、一体どのようなものなの だろう?そして、連れ去られるというのは、一体何に、何処に、どのように・・・・・・? 私は、自分自身もこのような世にも奇妙な状況に置かれつつも、激しく怯え、得体の知れぬ相手になりふり構わず庇護を求める、世にも憐れな男に深い同情の 念を禁じえなかった。しかし、すぐに当の本人の嫌悪感を感じずにはいられぬ容貌と雰囲気、邪まな思考と人とは思えぬその所業とを思い出し、考え直した。人 として――――だと?つい、先ほど、その「人」の仲間を魔物に捧げた男に、そんな台詞を言う資格はない。もはや、この男には、ヤヌスの慈悲も及ぶまい。あ るのは、ただ―――邪まな、〈魔〉による庇護でしかないだろうとも。私は、冷淡に断罪し、相手がどのように応えるのか、待ってみた。 すると―――― (・・・・・フッ・・・・) 相手は、フェイルーズ博士の、その必死な願いを聞き届けてやるつもりは全く無いらしく、鼻で笑い、そのままスゥッと”立ち去って”いった。 すると、奇妙なことに、急速に、私の五感はことごとく回復した。両の足はしっかりと石床を踏みしめていたのを感じ、物が焼き焦げた臭いやすえるような血 肉の臭いを嗅ぎ、すぐ隣をはじめとする他の部屋の囚人がてんでに騒ぎ立てる耳を押さえたくなるような騒音を聞き、眼はかすかに室外の通路の蝋燭の火照るの を見つけ、部屋を支配しているのが同じ闇でも真闇ではなく、ただの暗闇である事を発見した。我々のいるこの部屋の隔離が解かれ、我々は、再び通常の世界 に、現世に舞い戻ったのだった。 そう思って、ほっと溜息をついたのも、束の間―――― 「ドンッ!!」という大音響とともに、部屋に夥しい異形のものども――暗闇のなかゆえその姿を目視することは叶わなかったが、しかし、それが世の常なる 姿かたちをもった生物ではないという事は、瞬時に感じられた――がなだれ込んできて、部屋の奥にいる・・・であろう、フェイルーズ博士のもとに殺到した。 「う・・・・・うわぁーーっ!・・助けテくれ・・・・・・・助ケてクレ・・・助テクレ・・・助ケ・・・・・・・」 なんという事だろう!暗闇のもと、見えざる異形のものどもは、よってたかって泣き喚くフェイルーズ博士を捕らえ、いずこへか運び去ってしまった。レオ ン・フェイルーズは最後まで、抵抗しようとしたらしいが、その抵抗もむなしく、連れ去られてしまったのだった!その、世にも悲痛な叫びは何度も繰り返さ れ、そして、次第に小さくなっていった・・・・。その途中で途切れた最後の叫びの直後、バシャッという水の音が聞こえたことから、彼は通路の奥に流れる地 下水道に引き込まれたのだ、という事だけは何となくわかったが・・・それ以上の事は、私にわかろう筈も無かった。 だが、事態はそれだけでは済まなかった! 「ヒッ――― !!」 フェイルーズ博士が完全に姿を消した後、異形のものどもは、今度は私に目をつけたらしい。手足といわず、背中といわず、腹部といわず・・・・全身にペタ ペタと粘りつくような気色の悪い、湿った、子供のそれのように小さな手の指が吸いつき、それが私を担ぎ上げてしまったのだ。 それは、なんという気味の悪さであっただろう!これまで、どのような悪夢にもついぞ想像したことの無かったような、心の底から恐怖で凍てついてしまいそ うな感覚を私に与えた。この上なく非人間的でありながらこの上なく人間的でもある、生理的嫌悪感を感じさせる、窮めて異質で、邪まで、理解しがたい素性を もった怪物どもであった。いや―――異質で邪まなだけではなかった。それらが本当に私の心胆を震えさせたのは、理解しがたかったからではない。それらが 皆、私や他の人間と通ずる思考や知能を持ち合わせていながら、そうでは無くなった事から来る、嫌悪感だったのだ。 彼らには、意識が、ある。知的生命の、それも我々が属する〈人間族〉が有すのと同じ知能があることが感じられる。何故そう思ったのか分らないが、私に は、そうはっきり感じられた。 我々が肉体的、精神的に重大な障害を後天的に抱えざるを得なくなった同族に対して、それを目前にしたときに抱く憐憫や同情の念と同時に・・・つい感じて しまうえもいわれぬ、矛盾した感覚――。「まかり間違えば、自分もそうなってしまうかも知れない」という恐怖感の入り混じった偽らざる本音でありながら、 表層的な道徳や倫理の観念で無理やりに抑えこむ、あの、人として恥じるべき「忌避」の感情――不可触主義――根絶と排斥の念、それをこの見えざる怪物ども に対して感じてしまうのだ。それが尚の事、嫌悪をそそる――。 う・・・・ううう・・・ 私は自分の心の中に、あまりにも屈折し、鬱積し、混沌と入り混じった負の感情が吹き荒れる中で、声をあげることすらままならぬまま、こうしてフェイルー ズ博士の後に続く事になるのか、と諦観しかけていた。その時の事であった――― グイッ―――! さきほど私の全身を精髄まで〈触診〉した、あの《触手》と同様のものが、今まさに運び出されようとしていた私の両手両足をからみとり、見えざる拉致者の 手から奪還し、そのまま船の錨さながらに私の身体をその場に固定してこの企てを妨害した。 目的を邪魔された見えざる者どもは、とにかく、何とか私をその場から運び出そうと足掻いていたが、私を固定する触手の力は実に強力で、私の身体はピクリ とも動く様子はなかった。 それでも、見えざる者どもは、私の身体を、無念の感情を丸出しに、こぞって私の肉体にペタペタと触れ、掴み、引っ張り、引っ掻き・・・・・私は、その身 体が運び出される事こそかろうじて免れたものの、それ以外の助けは得られぬまま、無防備なまま、臭く湿った、粘着性を伴う気色の悪い無数の手に瞼の上から 足通しの中まで、いや、鼻腔や耳、口に至るまで、ありとあらゆる部分を触れられ、引っ掻かれた。 ギャ・・・・ギャ・・・・・ ゲ・・・ゲゲ・・・・・ゲゲゲ・・ キイッ・・・・キイッ・・・・・ ―――――とにかく耳障りで汚らわしい鳴き声をてんでにあげつつ、彼らは私にたかり続けたがまるで諦めようとはせず、連中に引っ掻かれて出来た傷口が徐 々に広がり始め、あまりの不快な痛みに顔をしかめた。 「・・・う・・・うわぁーっ・・・・・・・」 その耐えがたい苦痛と気味の悪さに、思わず声をあげた、その時、遠くの方でガチャガチャと床を踏み歩く、軍靴の音が私の耳に響いた。 (ついにカウロスの兵隊のお出ましか) 私は、見えざる者どもに嬲られながら、心の中で呟いた。 あまりに遅すぎる。これだけの騒ぎが起きているというにも関わらず、これまで彼らが現れなかった事の方が不自然であり、驚きであった。これは、監視体制 の不徹底や職務怠慢などという程度のものではない。あの、フェイルーズ博士の最初の凶行から、それによる地下室全体の騒乱がおきてから、すでにかなりの時 間が経っている筈だった――――私の記憶が正しければ。 ともかく、カウロス兵が現れたらしい。私は、己れがこんな状況に置かれているにも関わらず、カウロス兵どもがこの不気味な見えざる怪物を目にしたらどん な反応をおこすか、そもそもこの”見えざる者ども”がどのような姿かたちをした存在なのか、非常に興味ぶかく思い、その全てをこの目で見定めてやろうと考 え、カウロス兵たちが手にしているであろうカンテラの灯りを今か今かと待ちかねた。・・・・が――― ズザザザザザザ・・・・・・・・・・ 突如、その見えざる者どもは私にたかるのをやめて、そのそばから一斉に四散していった。しかも、暗闇の中ゆえはっきりとは分らなかったが、どうやら入っ て来た方向、突き破った扉の方ではなく、それこそ部屋の四方八方に、てんでばらばらに散っていくようだった。 (くそ・・・・・) 私は、我ながら妙な無念さと口惜しさとを感じつつ、彼らの姿の一端でも見定めてやろうと暗闇の中で目を凝らした。暗闇に慣れた目は―――カウロス兵たち が近づくにつれて徐々に明るくなってはいたものの、それでも未だ尚かすかと言って良い程度の――わずかな明かりをたよりとして、彼らの影を、姿形を見出 し、ついに私は、それの造形を目視する事にかろうじて成功した。しかし―――それは、果たして成功してよかったものだろうか?私は、沸き起こる嫌悪感と吐 き気とを抑えこむので精一杯であった。 いったい―――なんという、悪夢の生き物たちであったろう! 第一印象は、小型犬くらいの大きさの蛙、であった。極端に短い前肢に対して長く屈折している後肢を持っており、這いつくばっているようでありながら、一 応それでも四肢で立っている状態ではあるらしい。何故そのような印象をもったかというと、前肢が極端に短いため、前半身よりも後半身の方が上になってし まっているからで、実に不自然な体勢にみえた。全身をウジュウジュとしたフジツボのようなイボがくまなく多い、疣膚病のそれを思い出させた。そのイボはよ く見るとたまに脈動し、何か汚らしい体液をジュクジュクと垂れ流し、そのせいか全身がヌラヌラとてかっており、何というか、非常に不潔な、それに触れると 感染してしまいそうな不可触の念を自然に沸き起こさせる、不快極まりないものであった。暗がりゆえ、正確な色あいについては見極めきれなかったが、恐らく 青か深緑、あるいはその双方が入り混じったような体色であったように思われる。 まるでヤモリのそれのように細長くやせ細った前半身と、それとは非常に不釣合いな蛙に酷似した丸まっこい後半身を有しており、その後半身の端から前半身 の端にいたるまで、いや、首を経て、頭頂部、額にいたるまで、淡水魚のそれと非常に似通ったひれを備え、首筋には無数の縦長の孔がパクパクとひっきりなし に開閉している。 顔の形状については暗がりの中であること、部屋の四隅に向かっているため私からは見えにくかった事などから、最初はよく分らなかったが――いや、他の部 分にしろ、暗闇になれた目で何とか見える範囲でしか観察したり叙述したりすることは出来なかったので多少の程度の差でしかなかったのだが――、それでも 「真闇」に向かって群れなす怪物どもの中で私の拉致を諦めきらないといった体で、振り向き恨みがましく私を睨みつけるものもいて、それで連中の顔の形状に ついて知ることが出来た。 まず、両目が信じられないくらいに見開かれ、もう少しでこめかみに達するのではないかと思われるまでに顔の両端によってしまっている。そして、人でいう 鼻の部分から額、いや頭部に至るまで隆起し、後半身から続く「ひれ」に直結しているのである。そして、口部は二重瞼のような皺が口のまわりにあるばかり で、歯はなく、そのかわりイソギンチャクのような無数のぜん毛がその中を埋め尽くしている。髪やそれに類する大方の哺乳類の特性たる毛にあたるものはまる でなく、身体の他の部分のようにあちこちにイボがあったものの、その合間にそうではない、なんとなく爬虫類か魚類の持つ鱗を思い出させる。顔は他の部分に くらべて、ヌラヌラとした例のてかりが少ないように思われたが、そのせいか、その不浄な体液でぬめった身体のあちこちに手をあて、その液を顔にぬりたく る、という動作をひっきりなしに行っている。それが、この上なく汚らわしくみえたし、そんな手で先ほどまで触れられていたのかと思うと、心底ぞっとしてし まうのだった。 このように、彼らの形状は実に不気味で、世の常の生物とはまるで異なった奇怪な生き物であったのだが・・・・それだけでは私は、学者の端くれとして、そ こまでの嫌悪感を抱かなかったであろう。我々にとって、まだ未知の、そういう生物がいたと認識するのみだ。 しかし、私がおぞましさ、汚らわしさ、憐れさ、畏怖、嫌悪の入り乱れた悪印象を抱くに至った本当の理由とは・・・・・・彼らが、あり得ぬくらいに変形し た、「人間」に他ならなかった事、だった。 そう、彼らの肉体は、極端に歪められ、矮小化され、恣意的に加工されて不自然な器官を加えられてはいたものの、そのパーツの一つ一つは、基本的に「人 間」のそれに他ならなかったのだ。そう思ってみると、彼らの仕草のどこかに人間の、あるいは「もと」人間であった頃の名残が残っているかのように感じられ る。それは、人を人とも思わぬ、超自然の力による、悪意に満ちた人間の戯画そのものであり、その具現に他ならなかった。・・・・・一体なんという悪夢の産 物であろう!人間には、いや、この世に住まう全ての生物種には、その種族として生まれ死んでゆく権利がある筈だ。それは生命体の持つ尊厳に他ならぬし、い かなる者にもそれを犯す事は許されていない。この事は、様々な異能の力を有する魔道師達でさえ例外でなく、この禁を犯すことは、生命そのものに手を加える 罪と同等の、最大級の禁忌なのである。私は、彼らを目視するまで、その事を実感していなかった気がする。しかし――――実際にこの目でそれを見た時、憤怒 と、畏怖の念が同時に沸き起こってくる。このような外道が、ヤヌスのしろしめるこの世界において許されるわけが無い。これは―――けして許されない所業の 産物だった。 同時に、私は、ある事に思い当たった。この、群れる哀れな小動物ども、人のなれの果ての生物の顔が、先ほどそれによって何処かへ運び去られていった、あ の不気味な人物、レオン・フェイルーズのそれと余りにも似通っていた事であった。これらの事から、ある明白極まりない事実が明らかになる。これらの怪物 は、フェイルーズ博士のなれの果てである。言い換えれば、フェイルーズ博士は、この醜怪な――今でも充分に醜怪ではあったが――怪物への変貌の過程にあ る、いわば過渡期の存在に他ならなかったのだ。この事が、あの怪物どもが、人間の変形の裔であるということが再び裏づけられる。 フェイルーズ博士があれ程恐れていた事、それは―――――― 「おい、一体、何があった!」 鋭い叱責の声が、私を想念から現実に引き戻した。 それは、カウロスの軍装に身を包んだ兵士の声に他ならず、私は思わず、その声のした方に目を向け―――しかし、暗闇に慣れた目は、彼らの手にするカンテ ラの明かりに眩惑されてしまい、ほとんど苦痛を伴って、私に顔をしかめさせた。 「おい、一体何なんだ、この有様は!貴様、一体、何をやった!それに、他の者はどうした!?」 カウロスの兵士は、続けざまに私に質問を浴びせかけた。が、私は二転三転する、この目まぐるしい状況の変化に、ついに意識が混乱しきってしまい、言葉を 発しようにも発する事が出来ず、おし黙ったままだった。 「・・・・・・・・・・・」 「・・・・貴様っ!」 それを、反抗的態度ととらえたらしく、カウロス兵士の一人が、私のわき腹に硬い軍靴で、思いっきり強い蹴りを何度もくれて怒鳴った。私は今度こそ、現実 的な苦痛に顔をしかめ、うめいた。 「・・・うう・・・ぐ・・・・」 どうやら、内臓への当たりどころが悪かったらしく、私は身体を屈折し、嘔吐した。 しかし、カウロス兵は、全く同情や憐憫をかけるつもりなどないようで、その足で私の腹をグリグリと踏みつけながら、云った。 「答えろっ!他の者達は、一体どこに消えた?どうやって・・・・どこに『脱走』した!?」 「・・・・・・・・・・・!!」 脱走?―――――なるほど、この状況を見れば、そういう他ないだろう。ようやく明かりに目が慣れてきた私が、あたりを見回して目の当たりにした光景、そ れは――――壊れ散乱した木箱、扉、そして床に描かれた奇妙な紋様、魔方陣―――それだけでしかなかった。あの、不気味な矮小化された亜人間どもはすでに 跡形もなく消え去っていて、あの哀れな惨劇の犠牲者達の肉体の痕跡は何も残されてなく、これでは、彼らカウロス兵士が「囚人が集団で脱走した」という結論 に達したとしても仕方なかった。というより、この光景を目の当たりにしたとき、私自身ですら、この場で起きた様々な出来事の一切合財がとんでもなく陰惨な 悪夢に過ぎなかったのでは?と、己れの精神の健常性を疑ってしまうほどだったのだから。 しかし―――あれは、あの一連の出来事は実際にこの場で起きた事に間違いなかった。どんなに空想的であろうと、現実的でなかろうと、それが事実に他なら ず、私にはそう答えるしか出来ない。しかし―――果たして、それを、どこの誰に信じてもらう事が出来よう?どう話したところで、それを事実だと認識してく れる者などいよう筈が無い。彼らは、囚人が脱走した、と実に「現実的」な事実誤認をしており、私に、その詳細を述べさせようとしている。しかし、私は「非 現実的」な事実しか知らない。それを、述べたところで、彼らが受け入れよう筈が無いし、ひょっとしたら、その事でかえって怒りを喚起してしまい、ずっと酷 い目にあわせられるかもしれない。・・・・・・・正直、肉体的苦痛にあまり免疫がない一介の知的労働者に過ぎない私は、屈強にして残虐な行為に抵抗をまる で感じないカウロス軍の兵士から受けるであろう、暴力の恐怖に、とても怯えきってもいた。 なんと云ったらいいか分らない。 しかし、何か云わなければ、再び暴力をふるわれる。 私は、とにかく、何かをいおうとして口を開きかけた。 「・・・・え・・・・ええと・・・・」 「云え!奴らが、どこに逃げたのか、どのようにして脱走したのか、云うのだ!なんとしても・・・・なんとしてでも、参謀長閣下に知られる前に見つけ出 し、徹底的に・・・・・・」 その時、部屋の外から、聞き覚えのある声が響いた。 「・・・誰に知られる前にと云ったかな・・・・・・?」 「・・・・・・・!!」 「・・・・・さ・・・・参謀長・・・アドルフ閣下・・・・」 部屋の外には、あの、小柄でチョビ髭が印象的な狂気の参謀長、アドルフ伯爵が、両手を腰裏で組んで、後ろに二人の人物を従えて立っていた。一人は、あの 金髪碧眼の従者、騎士グードナーであり、もう一人は・・・・黒地に赤い色を着色しているのか、それとも赤地が黒くすすけているのかよくわからないような長 衣に全身を包んだ、長身の人物であった。 アドルフ伯爵は、ツカツカと部屋の中に進み、そこに居合わせた数名のカウロス兵士達はさっと道をあけ、敬礼し、直立不動の姿勢をとった。彼らは皆一様に 怯え、ガクガクと奮え、まるで猛獣でも見るかのような視線でアドルフ伯爵を凝視していた。 アドルフは、あの特徴的な甲高い声で命じた。 「・・・・状況を説明せよ、小隊長!」 「はっ!我々が階上で、我が軍のサーリスベリ占領計画の順調な進行をこのまま維持すべく、今後の我々一人一人の任務と役割を確認する会議を行っているさ なか、突然階下から喚声と煙、悪臭が沸き起こり、とるものもとりあえずその原因を確かめるべく急いでこの地下におりてきたところ、この部屋の扉は打ち破ら れ、この男を除く囚人達が姿を消しておりましたので、我々は脱走が起きたと判断し、この者から事情を聴取しようとしていたところでございます」 「・・・・・ほう・・・・・」 小隊長の説明に、そう答えると、アドルフ伯爵は倒れている私の衣服をめくり、腹部に手をあて、それからいかにも慈悲深そうに私に声をかけた。 「可哀相に・・・・。これは、我が軍の兵士達がやったことに相違ないな。申し訳ない、このアドルフ伯爵、カウロス軍を代表して、君に詫びよう」 というと同時に、スッと立ち上がり、大声で怒鳴りつけた。 「私が、無秩序な暴力をこの上なく厭い、我が軍からそうした行為一切をなくそうと厳しく取り締まっている事を知らないのかね!秩序なき暴力は、下品極ま りない、蛮族の証だ!私は、国際社会におけるカウロスの地位の向上を目指し、我が軍では『命令なき加虐行為の禁止』を徹底していた筈だ。よもや、その事を 知らなかったとは言わせんぞ、小隊長!」 小隊長は、もはや顔面を蒼白にして、しどろもどろに答えた。 「はっ!申し訳ありませぬ、参謀長閣下!しかし、この場合、緊急のこととて・・・・」 「見苦しい言い訳をするな!理由はどうであれ、君は――いや君達は――私の顔に、カウロス軍の名誉に、泥を塗った。それは、けして許されない命令違反 だ。違うか?」 「は・・・しかし・・・・いや・・」 「それだけではない。君は、私に嘘の、虚偽の報告を三つ行った!私の目は節穴ではないぞ」 小隊長の顔には、今度こそ、絶望的な、この世の終りでもみたかのような表情が浮かんでいた。 「一つは、この囚人への暴行事実の隠匿。 ・・・・それについては言及したな。しかし、君はこの件で、『命令なき加虐行為』に加え、『虚偽報告』という二つの命令違反の罪に問われる事となる。 二つ目は、私がこの収容施設を去った事で気を緩めて、この作戦遂行のさなか、あろう事か酒盛りをしていたにも関わらず、それを隠し、会議を行っていたな どというけしからん虚偽報告を行った事。 三つ目は、階下の騒ぎを聞きつけながら、あろうことか酔いつぶれ、揃いも揃って寝こけてしまい、対応が――すなわち現場に向かうのが――大幅に遅れてし まった事、そしてそれを隠匿しようとここでもまた虚偽報告を行った、という事。 ・・・・・どうだ、何か、反論はあるかね?」 小隊長は、いや、そこに居並んだ兵士全員が恐怖に全身を震わせ、歯をガチガチとならし、呼吸を荒げていた。 それでも尚・・・小隊長と呼ばれた男は、反論を試みた。 「・・・・そ・・・・それは、閣下の思い過ごしでございます。我々は、けして・・・そんな・・・・・」 「また一つ罪を重ねたな、小隊長!君は、証拠が無いと思ってそのように、事実を隠せるだのと思いこんでいるようだが・・・・・・私の《眼》についての噂 を耳にした事がないのかね・・・・・?」 「・・・・・・・・・・・・!!」 その言葉を聞いた瞬間―――小隊長は、息をとめ、それから「・・・・オオオ・・・・・」とうめいて、ガクリと――まるで全ての力を失ったかのように―― 膝をついた。 《眼》とは一体・・・・・? 私は、ふと疑問に思ったが、それを遮るかのように、アドルフ伯爵が、部下グードナーに甲高い声で命じた。 「・・・・よかろう!本来ならば、《判決》は二週間先の予定であったが・・・・・今、これからすぐに行う事としよう。階上にいる、私の親衛隊たちに命 じ、この収容所の囚人と、この――軍規違反者どもを上の広間に集めるよう、直ちに手配せよ!」 「ハッ!」 忠実な従者グードナーがすぐにその命令を伝えようと部屋を出て行ったのを見届けると、アドルフ伯爵はその後を追うようにツカツカと歩き始めたが、部屋の 入り口でふと足をとめ、振り返って、こう私に言った。 「・・・・まぁ、何にせよ、君が重要な参考人、あるいは容疑者であることには変わりは無い。これから、《判決》を言い渡し、しかるべき〈命令〉を私が下 したならば―――君に対する、”あらゆる手段を講じての”尋問が可能となるだろう。この事件の真相はその時にゆっくり聞かせてもらうことにしよ う。・・・・・そのつもりで覚悟しておきたまえ。要は、きちんと、しかるべき手順に則って行えば、何も問題は無いのだ・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・」 アドルフ伯爵は、何とも不吉な一言を残して去っていった。 その後に従う、長身の赤黒い長衣に身を包んだ、長身の人物が、去りゆき際に私をちらりと一瞥した。 私は、その長身の男の《眼》に覚えがあった。 その《眼》は、燃えるように赤かったのだ――――。 |
|
次のページへ進む
|